壮烈喇叭手の碑


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 日清戦争(正確には宣戦前)において,敵弾に倒れながら命の限り突撃喇叭を吹き続けた壮烈な喇叭手がいた.この逸話は戦前の修身の教科書に[シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ]と書かれ,有名であった.
 この喇叭手が誰であるかについては二説ある(当初は白神源次郎,後に木口小平とされた).これについては吉村昭の[シンデモラッパヲ](文春文庫[海軍乙事件]などに収録)に詳しい.

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喇叭の響

 メガホンを投げる輩は爪の垢を煎じて飲むべし.


白神源次郎の碑

岡山県浅口郡船穂(ふなお)町
位置:N.34°35' 49", E.133°43' 47"

 倉敷から近い.高梁川右岸の県道279号線[一の口水門]バス停から,水路に添って下流に歩けばすぐである.
 道路地図等には掲載されていないため,筑前屋が役場で尋ねたところ[船穂町文化財史跡図]なる立派なパンフを頂いた.


陸軍歩兵一等喇叭手白神源次郎記念碑
1999/06/14撮影

下記は碑の傍にある立て札の説明文

白神源次郎記念碑

 白神源次郎は,日清戦争に従軍していました.明治二十七年七月,朝鮮成歓の役,安城の渡しの激戦中,敵弾が胸部を貫きましたが,なお屈せず進軍ラッパを吹き鳴らし続けました. その余韻が消えると,ラッパを口にしたままで命が絶えました. 享年二十七歳
 当時の新聞・雑誌には源次郎の勇壮な戦死を讃えた記事が,盛んに報道されました.当時の検定教科書にも登場しました.軍歌には「姓は白神で名は源次郎」と歌われ,国内はもとより広く海外にも伝えられました.
 白神源次郎の墓はこの近くの出生地,字堅盤谷の丘の墓地にあります.

船穂町教育委員会


木口小平の碑

岡山県川上郡成羽(なりわ)町
位置:N.34°46' 54", E.133°31' 59"

 備中高梁から国道313号線を西進.役場を通り過ぎて次の新しい橋を右に渡る.道なりに進めば(ゆるく曲って町の中心部方向へもどる)交差点左側に小平園への階段がある.
 こちらも道路地図等には掲載されていないため,筑前屋があらかじめ役場で尋ねたところ,地図をコピーして丁寧に教えてくださった.徒歩の場合は役場の前の総門橋を渡るのがよい.


壮烈喇叭手木口小平之碑
1999/06/07撮影

下記は碑の傍にある立て札の説明文

小平園

 大正から昭和初期のころより文部省低学年修身の教本に載せられた木口小平は明治5年成羽村新山に生まれました.明治25年広島歩兵連隊に入営.ラッパ手として修練をかさねました.明治27年日清戦争勃発.小平の最期をとげた成歓の戦の記録には「ラッパ手木口小平は胸部に敵弾をうけ一度は倒れたが,銃を杖に起き上がり再びラッパを口にあて突撃の譜を奏し息の絶える迄これを続け.絶命後も尚銃とラッパを手から離さず.その壮烈なる動作は大いに我軍の士気を鼓舞した.時に明治27年7月29日」と記されている.大正3年川上郡内諸団体の協力にて小平園を建設.永く後世に語り継いでいる.


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