今月は、日本のポップス界になくてはならない、サウンドの魔術師、清水信之氏をゲストに迎えてのスペシャル対談です。小室哲哉とは同世代で、音楽への道のりも似ていることもあって、初対面ではあったが、延々1時間半にも及ぶ、内容の濃い対談でした。
小室 今のポピュラー音楽シーンで、清水さんはプロデュース、アレンジ、作曲などで大活躍なさってますが、ピアノを始めたのは、いつ頃からですか。
清水 3〜4才の時に、クラシックを。よくあるパターンなんですが、親からの強制でした。友達の遊ぶ姿を横目で見ながらの練習は、辛いものがありましたね(笑)。小学校6年の頃、ポピュラー・ピアノを覚えたと同時期ぐらいに、ギターにも目覚めて。中学、高校時代には、ヘビィーメタルの洗礼を受けてしまいました
小室 プロとしての初仕事といえば。
清水 ホールド・アップというグループで、佐藤奈々子のバックを演った時からです。その後、外道に居たりして。
小室 外道って、今でいうヘビ・メタの走りですよね。すごいものがあるな(笑)。じゃ、本当にここ2〜3年でEPOとか飯島真理とかのミュージシャンを手掛け出したんですね。
清水 はい。そういう、イメージを守りたいです。いつヘビ・メタが復活するか、わかりませんから(笑)。
小室 大江千里のアルバムのアレンジは、結構おやりになってますよね。
清水 『未成年』と『乳房』の2枚のアレンジをやったんですが、彼には自分をプロデュースするセンスが、どこかにあると思います。その出し方をまだ知らないだけで。デモ・テープをもらうと、その小節でやるべき全部の楽器のことを、ピアノで演ろうとしてるんです。それを解ってあげて、再現してあげるのに、一番気を使いますね。だから、彼は自分でプロデュースするノウハウとか、センスはあると思います。
小室 僕の曲(「きみに会えて」)もアレンジしてもらった、渡辺美里ちゃんはどうですか。
清水 最初のインパクトとかで、EPOのデビューの頃を思い浮かべてやりました。ロックに走らないで、いい肌触りで出してあげたいと。彼女、まだ19歳ですよね。多分、僕のアレンジはまだ好きになれないと思うんだ。ギーンというものをやりたい年頃だから。あの曲と、もう一曲は3〜4年すると感激すると読んでるんだけど。小室さんの曲は、デモテープのフレーズを結構いかしてるんです。
小室 そうですね。全然想像もつかないアレンジで、とても新鮮でした。
--清水さん独特の、アレンジ方法とかありますか。
清水 アレンジのスタイルを持たない事かな(笑)。ミュージシャンの素材をいかすというか。例えば、何かを訴えたい人のお手伝いと思ってるので、アレンジャーが自分のサウンドはこうだと主張しちゃうと、自分のレコードを出せ!と、思うよ(笑)。
清水 小室さんの、音楽仲間というと。
小室 バック・バンドとか、多くやったけど、ギターの北島健二とかくらいかな。
清水 美里ちゃんのLPで、ギターを弾いてる佐橋って、僕の高校の後輩なんです。僕が3年の時、EPOが2年で、彼が1年。そして、数年経ったら渡辺美里が出て来たという。不穏で、異状な高校ですよ、陰の堀越学園、といわれてます(笑)。
小室 北島健二君の高校もすごいみたいだけど。僕は、活動がほとんど三多摩なんです立川、三鷹、福生とか。高校が都心だったので、都心のディスコのノリと、地元のハード・ロックとかプログレのノリを合わした感じでしたね。
清水 やっぱり、ディープ・パープルのアルバム『ライブ・イン・ジャパン』の、「ハイウェイ・スター」の、イントロのサウンド・チェックまでコピーしたクチですか。
小室 ええ、そうです。(笑)ツェッペリンとか、バン・マッコイとかをやっていたから。
清水 やっぱり、そうですか。何となくわかるような気がするな。とても、僕とは近い感じで音楽に入ってるようですね。あの、サウンド・チェックしてる音までコピーしちゃう、悲しいヘビ・メタファンの性っていう感じだもの。(笑)
小室 シンセサイザーは、いつ頃から。
清水 最初は、小学校6年の時に銀座のヤマハへ、ミニ・ムーグを見に行ったの。何回か通ってるうちに、店員よりも使い方を覚えちゃったんだ。(笑)オルガンも早い時期から弾いていて、今はハモンドオルガンが好きだね。
小室 じゃ、あまりシンセっていうことでもなかったんだ。
清水 うん、ピアノやオルガンでたりなかったから、シンセサイザーを使ってたんだ。
小室 僕は、オルガンがメインだったけど、シンセがないとやばい感じだったんです。
清水 僕はね、途中でレスポール持ったりとかの、回り道があったから。以前、ギタリストの成毛茂が、マーシャルをギンギンに強くしておいて、左手だけで音階を出して、右手でオルガンを弾きユニゾンさせ、足を使ってオルガンのベースを弾いたのには感激しましたね。(笑)そのマネだけを、目標にしてた時がありました。
小室 以外と、今までの道のりは似てますね。
清水 僕らがプロになる頃って、サウンドが多様化して来た時代だと思うんだ。そこで皆、細かい道に別れて行ってしまったという。
小室 僕が影響うけたのは、ディスコ・サウンドとかなんです。ドナ・サマーのアルバム聴いて、リズムはシンセでやってるのがわかって、少し発想を変えてみたんです。メロディーとか、コードを弾かなくなったんですよ。
清水 昔、加藤和彦というクセモノの、おもしろい、個性派プロデューサーと2人で、ミュンヘンに乗り込んでディスコサウンドの録りをやってたら、定石があるんだ。ああいうサウンドは、コードだけ書いてもあのようになっちゃうというのは、おもしろかったです。
小室 やっぱり、シーケンサーを使って?
清水 そう。でも、まだMC-8しかなかったんだけど。その頃のヤツって、照明と同じ電源でやると、データが消えちゃうという、すごいもんだったけど。(笑)
小室 今はそれほどでもないけど、変わりますね。うちも照明量が、とても多くて電気を使うんですけど。一度、ビームを使った時は、変わったことがありますよ。(笑)
今は、ヤマハ系のシンセを使ってるんですか?DXという、イメージが強いけど。
清水 まァ、ハイ。DX1は、名前入りですね。カートリッジを入れないで、アナログみたいな音を作ってます。デジタルですっていう音は、出さない方ですから。硬いかな、と思ったら、プロフェットをまぜたりとか。やっぱり、DXだけで音楽作ったら、ちょっと気持ち悪いですから。
小室 僕も、以外とアナログが好きなんで、オーバーハイムとかが好きなんです。
清水 PPGは、いいですか?
小室 リアルDXには、ハネる音がありますよね、そういう時には迷わず使います。何か、深みのあるというところで。あのー、上タムがすごく良くて。DXにしても、まだまだその広い使い道を知らない人が多いんです、一般の人達の中には。
清水 ハッキリ言って、説明書を読んでくじけると思うの。僕だって、あれを読んでもわからないもの、物理の教科書みたいで。とりあえず、いろいろと自分でいじくり回すこと。買ったから、何とかなるんじゃなくて。自分で、これは何だろうと思ってみることだね。
小室 それに、テクニック面では…。
清水 クラシックから、ポップスに入った人って、一番良くない。リズムという、概念がないから。(笑)。
小室 メトロノームでやっても、ダメですよね。
清水 そうそう。リズムが、ポップスなんかは基本でしょう。だから、ヘタでもいいからリズムがバシッと合う練習をしてほしいな。指使いで支障が出てくれば、そういうフレーズは弾かなければいいの。(笑)あと、弾いた音を録音して、冷静に聴き直すというのも、いいと思うし。
小室 僕なんか、指が逆にソッてるんですよ。ビデオなんか見て、自分で驚きました。
清水 昔、ハービー・ハンコックがそうだったみたいで、それは疲れるからマズイと。で、鍵盤の裏に鉛を入れて、練習したそうです。
小室 ヘェ〜。最後に、清水さんの今年の活動などは。
清水 以前やった、EPOと一緒に踊ったりとかの、ダンスを含めたエンターテイメントをやっていきたいなァと、思います。もちろん、アレンジ業も、もっともっとね。
大変ポップな部分と、音楽に対してのパワーの両方を充分に感じる人だよ、清水さんは。ほんとにね、いつもレコーディングで遊んでるみたいに話をしてくれるんだけど、清水さんが手掛けた仕事は数えてもきりがない。もう、アイドルなんて100人位やってるんじゃないのかな。すごいプロフェッショナルな仕事を、ちゃんとこなしている。才能のある人は、同じ1日を信じられないくらい有効に使えるんだよ。近い将来、何か一緒に出来るといいなぁと思いますね。
まぁ、今年も清水信之という名前を、いたる所で見かけるでしょう。僕も、清水さんにメリットがある様なアーティストにならないとね。1986年も頑張ろうね、みんな!!
1959年12月14日、東京生まれ 3〜4才からピアノを始め、ハード・ロックへの道も歩みかけて、レスポールで狂ったりもする。プロとしては、佐藤奈々子のバックバンドの一員としてが最初。その後、プロデュース、アレンジ、作曲業などで、大活躍。EPO、飯島真理、大江千里、渡辺美里など、手掛けたアーティストは数知れず。現在のポップ・シーンの原動力となる、重要人物の1人。
●小室哲哉プロフィール
1958年11月27日、東京生まれ。3才からバイオリンを始め、クラシックの英才教育を受け、17才からプロミュージシャンとして活動。上田正樹、バウワウ、大江千里など、様々なアーティストのレコーディングやライヴに参加。'84年、TM NETWORKというグループを率いて、現在の音楽シーンに登場。