今日に限って天気はよくありませんでした。雨が降りそうで降らないような空模様。
4時開場、4時半開演。
僕が化学の講義を抜け出して着いたのは4時5分頃でした。
もう開場していて、ぞろぞろと長い列が前に進んでいました。
もらった整理券兼アンケート用紙の番号は、236番。
200人以上が開場前に並んだことになります。
演題は、「心に太陽」。
入ってまず目に着いたのがステージにでーんと置かれたグランドピアノ。
そう、今日はミニライブの予定もあるんです!
席は比較的良い場所がとれました。
所によってはステージが見えない席もありましたが、
さすがにそこには誰も座っていませんでした。
席はだいたい350くらいでしたが、埋まったのは8〜9割といったところ。
4時半になり、開演の時間。
現れません。
4時40分。
まだ現れません。
13分遅れの4時43分にようやく開演のアナウンス。
そして登場!
と思ったら司会でした。ひっこめ!
その後、新歓委員長が、挨拶と木根さんの簡単なプロフィール紹介をして。
ようやく木根さん登場です。
ただ気になったのが、委員長の決めゼリフ、
「それでは!元TMネットワークの木根尚登さんです!」
″元TMネットワーク″って言い方、現在の木根さんを否定してない?
拍手に包まれて登場のキネさん。かっこいい!
服装は薄い青に灰色をちょっと混ぜたような色のスーツ。ちょっとテカりぎみ。
まずは、やはりジョークから入りました。
僕はよくライブやラジオなどで話すことが多いから慣れてはいるんだけど・・・、
こんな台(マイクの台)・・・まるで大統領同士ががこうして使うような・・・
(ほんとに大統領っぽい仕種)・・・。」
会場の空気をかっさらっていきました。
話はほとんど自分の歴史のようなものでした。
話は小学校時代から始まりました。
ドラムが欲しかったこと。親に冗談じゃないと言われたこと。
でも小太鼓だけ買ってもらったこと。それをもって吹奏楽部に入ったこと。
そしたら自分よりうまい小太鼓少年が居たこと。
小太鼓を自前したのに大太鼓にまわされたこと。などなど。
中学に入って(あれ?高校だったっけ?)幼馴染みのウツさんとデュオ(名前は
おんざろっく)を結成して、オーディションにでまくったこと。
その時には既に自分が作曲してウツさんが歌う、
という形式でデビューする気だったこと。やがてバンドを結成したこと
(これがスピードウェイ、だっけ?忘れちゃった)。
話は小室さんとの出会いへ。
例の、
「アイツとは友達になれないよな。」
には会場バカうけでした。
それと、コムロさんのものまねが相変わらず冴えてました。
スピードウェイがデビューするきっかけは、かなり悲惨だったようですね。
あるコンテストでレコード会社に声をかけられて、
「うちからレコード出さない?」
なんて言われたと思ったら、声をかけたのは実は新入社員で、
手違いだった、と謝られたこと。
「まあせっかくだから一枚だけ出しましょう。」と言われてしまったこと。
とりあえず出しても、知っての通り売れません。
その時コムロさんもデビューしそうで出来ないといった時期だったそうで。
それでコムロさんがスピードウェイに入ったわけです。
新成スピードウェイのデビュー曲は「月光仮面」。
キネさんいわく、
「だから、小室哲哉のデビュー曲は月光仮面なわけです。
彼はそれをもみ消そうとしているようだけど。」
やがてスピードウェイは解散。
堅実に人生を歩んでいればもう立派な社会人。
本人が本気でも、親・親戚から見れば「いい歳してまだ遊んでる。」
でももうここまで来たら引き返せない、とキネさんは思ったそうです。
キネさんとコムロさんの付き合いは続きます。
ふたりはよく夜中まで語り合ったそうです。
夜になるとコムロさんがキネさんの家にやって来ます。
しかし・・・どうも誰かが運転する車で送ってきてもらう様子・・・。
そして熱い語り合い。
やがて3時頃になると、
「じゃぁキネ、タクシー呼んでよ。」
キネさんもタクシーで帰る友達は初めてだったそうです。
その時からコムロさんはよくアイディアを出します。
「少人数でいこう。」
「僕とキネとボーカルの3人がいい。」
「ボーカルは外人だ!めざすは世界!」
そして本当に知り合いのオーストラリア人を迎え入れて活動を開始しますが・・・。
彼はオーストラリアへと帰っていきました。
そんなこんなで、ウツさんを迎え入れたユニットがスタートします。
TMネットワーク結成。
コンテストで優勝しデビューしますが、待っていたのは3年に及ぶ売れない時代。
キネさん曰く「演歌歌手のように」地方をまわってのプロモーションを続け、
ようやくGetWildで日の目を見ました。
テレビに出演するときはかなり知恵を利かせます。やっぱりコムロさんの案です。
当時はコンピュータの性能もたいしたことがなくて、
リアルタイムにあれだけの演奏は不可能だったそうです。
でもやっぱりTMはハイテクを前面に押し出したい。
「僕らはテレビに出るときすごそうなコンピュータを持ち込んで演奏していましたが、
実はコンピュータを操るフリをしながらカラオケで歌ってました。
みんなだまされてました。」
EXPOツアーの時にはこんなことも。
コムロさんが、
「僕のとこだけ照明が暗い〜。」
と、さわぎだします。
しかし・・・どう見てもそんなことはありません。
「コムロさん、もう予算がありませんので・・・。」
と言われると、
「じゃぁ自費で出すからいいよ〜。」
キネさん曰く、
「彼は昔から金を使いたがる癖がありましたね。
自費で照明用意するんだったら、僕は蛍光灯の下ぐらいでいいです。」
このあたりから話が講演会らしい内容になっていきます。
舞台はCAROLの頃へとさかのぼります。
企画好きコムロさんの考えで、CAROLは今までにない広がりを見せることになります。
ロンドンでのレコーディングの最中、コムロさんが持ちかけてきました。
「CAROLは小説も出そうよ。」
キネさんは思ったそうです。
「はぁ〜、今度は小説まで書くのか。やっぱりコムロ君は違うなぁ。
才能の塊というべきか。」
しかしコムロさんは言い放ちます。
「ちがうよ、キネが書くんだよ。」
こうしてキネさんの小説家としての人生が始まりました。
「僕はどちらかというと書くのは苦手な方で、小説なんか書いたことがない僕になにを根拠に コムロ君は言ってるのかと思いましたよ。雑誌に簡単なエッセイみたいなのを書いているのを 知っていたから言ってきたんでしょうけど、さすがにびっくりしましたね。 最初はどうしようかと思いましたが、結局やる気になりました。 小説を書くことは、ほんとにつらかったです。10行書く度に、もうやめよう、と思ってました。 でもそこでやめないで良かったです。 小説を書き終えたときは、 やった、もう終わりだ、もう書かなくていいんだ、と思いましたが・・・。」
しかしやっぱりコムロさんが現れます。
「う〜ん、キネ、良かったよ〜。才能あるじゃない。
・・・今度はうちの犬を主人公にしてよ。」
「CAROLは予想以上に20万、30万と売れました。 もちろんTMのファンたちが支持してくれるんだろうけど。 それで、本の感想とかの手紙がたくさん届くんです。 なかには、不治の病で入院してる子とかからも届いたりして。 『あの本を読んで生きる気力が湧いてきました』なんて言われて、 正直言って怖くなりましたね。嬉しいとかそういうよりも、怖かったです。 本の持つ力というものを見せつけられたというか。 そんな事もあったから、もう一度書こうと思ったんです。 でもCAROLのときはかなり背伸びして、難しい言葉なんか調べながら書いたんですが、 あんなことしてたらもう絶対途中で断念しちゃうだろうと思って 今度はなにも見ないで書くことにしました。 自分の力だけでどこまでできるかやってみたくて。」
「僕はCDで『NEVER TOO LATE』というのを出したんですが、 それはそのときすごく思った言葉で。 NEVER TOO LATE、決して遅くないというのは、絶対にそうだと思うんですよ。 僕は実際あんなに遅くなってから小説を書きはじめたわけだし、 すごく有名な画家で、70歳になってから絵を書きはじめて90を過ぎて亡くなるまでの 20年くらいの間に素晴らしい絵をたくさん残した人だっているんですから。 遅すぎるなんてことはないと思う。 僕の夢の中には『音楽』っていうのはあったけど 『小説』っていうのはぜんぜんなかったんだからね。 最近じゃ、まだすごく若いのに夢をあきらめるって人がすごく多いような気がする。 人によっては小学生なのにもうあきらめてるとか(笑)。 君たちはまだ僕なんかよりずっと若いんだから もっと新しいことにどんどん挑戦していっていいと思う。 遅すぎるなんてことはないんだから。」
最後に演題の意味を説明して講演会はとりあえず終わりです。
「心に太陽」というのはキネさんがプロデュースするチャリティーCDのタイトルだそうです。
「講演会なんだから演題をつけろ、と言われて適当につけました(笑)。」
阿部薫さんをプロデュースしてそれがこのアルバム、なのか、話がよくつかめませんでした。
講演会が終ると、次にはミニライブの予定があるのですが、その前に質問会です。
講演会が終ってさっさとライブの準備に入ろうとピアノに向かった木根さん。
「次は木根さんへの質問会です。」
という司会の言葉で帰ってきました。
木根さん、ちょっと失敗。
最初の質問は・・・ごめんなさい、思い出せません。
まぁ、印象に残らなかったってことは大した内容じゃなかったんでしょう(言い訳)。
2番目の質問は、やっぱり出ました「TMNの復活はないんですか?」というもの。
これに対して木根さんはこう答えました。
「TMNという活動はあれで終わりました。復活はないでしょう。
でもだからといって僕ら3人の仲が疎遠になったなんてことはなくて、
いまでも仲良くしてます。
だから、TMNではなくて、違ったことで3人がまた一緒に何かやるというのは、
僕はあると思ってます。」
会場には拍手が沸き起こりました。
次の質問は、「TMNのTMとは、なんなんですか?」というファンなら知っているもの。
「TMネットワークのTMは・・・多摩のTMです。
バンドの名前を考えるときに、コムロ君がやけに地域性にこだわりまして。
それで最初はタマネットワークだったんだけど、やっぱりそれはどうかということで。
それでかっこよくTMと。
でも、今みたいに人に聞かれたときに多摩のTMじゃぁかっこ悪いじゃないですか。
それでコムロ君が『タイムマシーンのTMにしよう』ということで、
表向きはずっとタイムマシーンのTMだったんですけどね。」
最後の質問は、やっと音楽に関してのもの。
「木根さんにとってレッドツェッペリンとはなんですか?」
これに対しては、ちょっと考えてから、
「ビートルズ以来、もう出ないだろうすごいバンド。」
という結構あっさりした答え。これに続けて、
「ツェッペリンは、僕なんかよりももっと深く好きだっていう人が周りにいますからね。
・・・北島健二って知ってる?」
と質問者に尋ねましたが、彼は知りませんでした。
木根さん困ってましたが、
「・・・まぁ、そういう人もいるからね、うん。」
と最後は適当でした。
そして質問会が終り、プログラムは最後のミニライブへ突入します。
木根さんがピアノに手をのせました。
すると突然スピーカーから「橋はどこにあるの」のイントロが。
あれ?ピアノは?と思ったら、そのイントロに合わせて木根さん弾いています。
そこでやっとわかりましたが、
カラオケ(ただのカラオケなのか特別エディットなのかわかりませんでしたが)
に合わせてピアノを弾き、歌を歌うというものでした。
ミックスがあまりうまくいってなくてピアノが良く聞こえなかったのが残念でしたが、
やっぱり生歌が聴けて嬉しくないはずがありません。聴き入ってしまいました。
それにしても、夢とかそういうテーマの講演会でこの歌とは、いい選曲ですね。
そして2曲目は、ピアノ伴奏だけによる「Time Passed Me By」でした。
感動、の一言です。それ以上言うことはありません。
そして、
「最後は一番新しいシングル、『REMEMBER ME?』です。聴いてください。」
という最後の言葉のあと「橋は〜」と同じ方式で歌ってくれました。
3曲という短い内容でしたが、とても中身が濃かったように思います。
最高のライブでした。
ライブが終って、木根さんが拍手のなか舞台裏へと消えていきました。
拍手をやめたくないような、素晴らしい講演会でした。
またいつかどこかで木根さんが講演会をすることがあるんでしょうか。
是非もっと多くの人に木根さんの言葉を聞いてもらいたいと思います。
この間、講演会のスタッフだったって人に会ったんですよ。
そしたら、「EXPO」持っていってサインしてもらったとか。
うらやましすぎるぞ!
スタッフのくせにそんな事してええんか!
仕事してろ!
と思ったけど口には出しません。
でも、なぜにEXPO?
俺だったら、なににしてもらうかな・・・。
とか考えると悲しくなるのでやめます。
・・・やっぱTMN BLUEか?
そのとき聞いたんですが、なんか葛城哲哉が筑波大出身だそうで。
オレってば後輩!
しかも卒業じゃなくて中退だそうで。
なんだかなぁ。
彼は大学に入ってから音楽を始めたそうですね。
そして中退する頃には(笑)すごかったとか。
ぼくも実は大学から音楽を始めようと思ってて。
彼を目指しますか。
でも中退はしません(笑)。
筑波音楽協会、通称筑音(ちくおん)(バンドのサークル)での伝説の人らしいです。
僕はそこじゃないんですが。
ちょっと悔しい(笑)。